
2011年05月02日
対談テキスト再録「空間における“闇”の条件」(3)
客体と空間
土屋:ともあれ、空間ということについて今度は別の角度から考えてみましょう。ここでは例として、アメリカの1960年代頃の美術のなかから、いわゆるミニマリズムというものについて、触れておきたいと思います。これは、ロバート・モリスという、ミニマリズムに区分されるアーティストが1967年に作った作品です。一般にミニマリズムとは、美術作品を構成している要素を抽象化、あるいは還元化していくものとして知られています。美術作品をポンジュースみたいに濃縮還元していくとこんな形になりました(笑)、というわけですね。クレメント・グリーンバーグ的なフォーマリズムのロジックに基づくならば、絵画が絵画である条件を突き詰めていくと、結局四角いフレームしか残らない。それだけで絵画の必要条件を満たしているわけですから、あらためてそこに何かを描く必要はなくなる、という極端な話になる。ゆえにミニマリズムは、フォーマリズム的な美術の見方というものを、極限まで推し進めたものであると言える。
ミニマリズムの隆盛期の同時代に、マイケル・フリードというアメリカの美術評論家・美術史家がいます。フリードはミニマリズムに対して、『芸術と客体性』というテクストのなかで非常に強く反対します。フリードがミニマリズムの美術作品に対して指摘したのは、それが「リテラリズム」、つまり「文字通り主義」であるということです。フリードは、リテラリズムは劇場性、すなわちシアトリカリティに行き着いてしまう、と言う。どういうことかと言うと、まさにこの作品を見ればわかるとおりに、確かにこの作品は、この形がこの形であるという、ある種の同語反復性に支えられて成立しているかのように見える。しかしながらフリードはそうではないと批判するわけです。この作品は比較的典型的なんですけれども、この作品を作品として成立させているのは、この作品がこういったシェイプを先験的に持っているがゆえではない。そうではなくて、ここに観客あるいは観者というものが参与することによって、初めて作品というものが事後的に成立している、ということをフリードは言うわけです。そしてそれがいかん、と言うわけですね。空間の中に作品が置かれて、そこで観客が参加することによって初めて成立するような美術作品はだめだと言うんです。また、フリードがミニマリズムの傾向に対して劇場性という言い方をもって批判したのは、まさに劇場という言葉が演劇のジャンルに属するものであるように、美術とは関係ない他のジャンルの夾雑物が作品の中に入っているゆえである、というわけです。
自律性と没入(アプソープション)
では良い作品を、良い作品たらしめている条件というのは一体何なのか。フリードが言うには、ある種の作品を経験するときにおいては、瞬間性、現在性あるいは無時間性が重要であると主張します。つまり瞬時に作品の全貌というものが把握されるような作品でなければならない、というわけですね。ところで、瞬間性か、あるいは演劇性かみたいな議論というものは、ミニマリズムの時代に始まった話ではありません。例えばこれは有名なラオコーン像ですけれども、このラオコーン像に対して、18世紀の啓蒙思想家のレッシングによる、『ラオコーン』というテクストがあります。そこでは、文学あるいは詩、演劇のようなジャンルは時間芸術であるとされ、一方彫刻や絵画などは時間芸術ではない芸術である、とされます。つまり芸術という広い枠組のなかに様々なジャンルがあるわけですけれども、その諸ジャンルをきちんと弁別をしましょうという話が18世紀ぐらいに既に起こっているわけです。
さて、瞬間性や無時間性というものが、芸術を良き芸術たらしめている、とフリードは言うわけですけれども、そこでは一体何が主張されているのか。それは、他のジャンルに依存することなく自律する美術作品、というヴィジョンです。ミニマリズム批判ののちフリードは、ある種の自律的な空間というものを、絵画あるいは美術というものがいかにして形成してきたかということを、歴史的に辿っていきます。例えばこれは、18世紀のロココの時代に属するシャルダンの『シャボン玉を吹く少年』と題された絵です。この絵は観者の存在に依存することなく、絵画の表象というものが自立していると見ることができる。葦の管か何かを使ってシャボン玉をふくらましている少年の視線は、シャボン玉がふくらんでいる様に注視している。後ろに座っている子も同様に、シャボン玉に眼差しを注いでいる。このような様態をフリードは、アブソープション(没入)という言い方で説明します。どういうことかというと、少年はシャボン玉に注視することによって、この絵に対峙している観客の存在をあたかも忘れているかのように、シャボン玉に没入している。そのことによって、観客の視線に必ずしも依存することのない、絵画の表象あるいは絵画の空間というものが成立しているというわけです。このような没入の表象に即してフリードは、ダヴィッド、ジェリコー、あるいはクールベ、そしてエドゥアール・マネといった名前を挙げていきます。美術というジャンルにおける自律した表象を形作っていく歴史の系譜というものを、フリードは辿っていくわけです。
さらにフリードは、様々な時代の絵画にアブソープションという用語を適用させていきます。これはバロックの時代に描かれた、カラヴァッジョの『ナルキッソス』という絵ですけれども、フリードが言うところのアブソープションというものが、この絵画では典型的に実現されている。ナルキッソスが水面に映った自分の姿に見惚れて、フリーズしてしまっているという状態が描かれているわけですね。この絵は二重の意味で自律的な空間を形成していると言うことができる。一つは水面に映っている自分の像に、見ている主体というものが没入しきっているということ。あともう一つは、この絵は非常に興味深いことに、ほぼ画面の中央で折り返すかのように、空間を切り閉じているということです。ちなみに余談ですけれども、このカラヴァッジョの絵を精神分析的に読むという見方もあって、ここではナルキッソスの足の膝がむき出しになって描かれているわけですけれども、精神分析的な解釈によれば、これは勃起したペニスの代理表象であるという読み方があったりします。なぜカラヴァッジョの話をしたかというと、光と闇というお題でベタに思いつくのがカラヴァッジョだということもあるんですけれども(笑)、しばしばカラヴァッジョという画家は、光と闇という特性によって語られます。これはカラヴァッジョに限らず、バロック絵画一般において多く適用されることではありますが、西洋的な光と闇というものの理解のための、手がかりにはなるでしょう。
さっき谷崎が、いわゆる近代的な光と闇という二項対立を前提としつつ、そこから遡及的に日本の空間の特質のようなものを、フィクションとしてではあれ形成したのとは対比的に、大雑把に言うと、西洋における光と闇というものは、二元論的な対立項として捉えることによって空間を生成させているのだと言うことができるでしょう。しかし谷崎が読むところの日本的な空間というのは、そういうものではない。光/闇といった二元論ではなく、その両者を含みこむグレーの領域こそ、日本的な空間をジェネレートするマトリックスとして、おそらく谷崎は考えていたのではないか。
石田:今途方もないスピードで展開されたお話なんですけれども、ここは造形表現学部で、美術史はみんな弱いと思うので、今の土屋さんのお話を少し僕のほうでフォローさせてもらいます。
形式主義の限界
多分今の話の一つには、圭太さんがやっているインスタレーションの、この展示形態自体が非常に生成的なもので、恒久的なものではないという点が関係してくる。いわば形式から逃れようとしている作品だということがまず言えると思います。逆に言えば、形式には絶対に陥らないぞという意識が見えている。
その辺で振り返ると、先ほどのフリードの話というのはまさに形式論の話なんです。簡単に言うと、その前にグリーンバーグという人がいまして、彼が言うには壁に何かを掛ければ、それはもう絵画だと言い切るしかないんだ、そうでないとモダニズムというのはやっていられないし、突き詰めていけないんだ、ということだと思います。つまり彫刻であれ絵画であれ、いずれにせよそのジャンルの中だけで進化し続けていく、といった夢みたいな話が、1960年代、70年代まであった。逆に言えば20世紀の美術の半分以上は全部それだと言い切れると思います。その後の時代にわれわれはここにいるのですが、その臨界点のような作品としてミニマリズムの作品があって、限界を提示するという意味においては、これがまた不思議なことに大体正方形になるんです。
一つ言えるのは、芸術作品としての自律性をここまで突き詰めると、これは単に美術という制度によるものでしかなくなってしまうわけです。例えば展示スペースに置かれれば、それは作品になる、といったように。おもむろに箱を置いただけのようなものでも作品になり得る。ともあれ、一つの限界の提示という意味においては、正方形というのは絶対的な形、形の始まりみたいなものとしてイメージされていたのだと思います。
ところがここまでやってしまうと、もう作品の成立というのは、劇場みたいなものでしかないのではないか、ということになる。そこでは作品と、見る者の役割が明確に分かれていないと成立しない。それを超える一つの例として、没入というイメージが出てきたのです。ただ、この没入の問題というのはとても難しい。
土屋:ともあれ、空間ということについて今度は別の角度から考えてみましょう。ここでは例として、アメリカの1960年代頃の美術のなかから、いわゆるミニマリズムというものについて、触れておきたいと思います。これは、ロバート・モリスという、ミニマリズムに区分されるアーティストが1967年に作った作品です。一般にミニマリズムとは、美術作品を構成している要素を抽象化、あるいは還元化していくものとして知られています。美術作品をポンジュースみたいに濃縮還元していくとこんな形になりました(笑)、というわけですね。クレメント・グリーンバーグ的なフォーマリズムのロジックに基づくならば、絵画が絵画である条件を突き詰めていくと、結局四角いフレームしか残らない。それだけで絵画の必要条件を満たしているわけですから、あらためてそこに何かを描く必要はなくなる、という極端な話になる。ゆえにミニマリズムは、フォーマリズム的な美術の見方というものを、極限まで推し進めたものであると言える。
ミニマリズムの隆盛期の同時代に、マイケル・フリードというアメリカの美術評論家・美術史家がいます。フリードはミニマリズムに対して、『芸術と客体性』というテクストのなかで非常に強く反対します。フリードがミニマリズムの美術作品に対して指摘したのは、それが「リテラリズム」、つまり「文字通り主義」であるということです。フリードは、リテラリズムは劇場性、すなわちシアトリカリティに行き着いてしまう、と言う。どういうことかと言うと、まさにこの作品を見ればわかるとおりに、確かにこの作品は、この形がこの形であるという、ある種の同語反復性に支えられて成立しているかのように見える。しかしながらフリードはそうではないと批判するわけです。この作品は比較的典型的なんですけれども、この作品を作品として成立させているのは、この作品がこういったシェイプを先験的に持っているがゆえではない。そうではなくて、ここに観客あるいは観者というものが参与することによって、初めて作品というものが事後的に成立している、ということをフリードは言うわけです。そしてそれがいかん、と言うわけですね。空間の中に作品が置かれて、そこで観客が参加することによって初めて成立するような美術作品はだめだと言うんです。また、フリードがミニマリズムの傾向に対して劇場性という言い方をもって批判したのは、まさに劇場という言葉が演劇のジャンルに属するものであるように、美術とは関係ない他のジャンルの夾雑物が作品の中に入っているゆえである、というわけです。
自律性と没入(アプソープション)
では良い作品を、良い作品たらしめている条件というのは一体何なのか。フリードが言うには、ある種の作品を経験するときにおいては、瞬間性、現在性あるいは無時間性が重要であると主張します。つまり瞬時に作品の全貌というものが把握されるような作品でなければならない、というわけですね。ところで、瞬間性か、あるいは演劇性かみたいな議論というものは、ミニマリズムの時代に始まった話ではありません。例えばこれは有名なラオコーン像ですけれども、このラオコーン像に対して、18世紀の啓蒙思想家のレッシングによる、『ラオコーン』というテクストがあります。そこでは、文学あるいは詩、演劇のようなジャンルは時間芸術であるとされ、一方彫刻や絵画などは時間芸術ではない芸術である、とされます。つまり芸術という広い枠組のなかに様々なジャンルがあるわけですけれども、その諸ジャンルをきちんと弁別をしましょうという話が18世紀ぐらいに既に起こっているわけです。
さて、瞬間性や無時間性というものが、芸術を良き芸術たらしめている、とフリードは言うわけですけれども、そこでは一体何が主張されているのか。それは、他のジャンルに依存することなく自律する美術作品、というヴィジョンです。ミニマリズム批判ののちフリードは、ある種の自律的な空間というものを、絵画あるいは美術というものがいかにして形成してきたかということを、歴史的に辿っていきます。例えばこれは、18世紀のロココの時代に属するシャルダンの『シャボン玉を吹く少年』と題された絵です。この絵は観者の存在に依存することなく、絵画の表象というものが自立していると見ることができる。葦の管か何かを使ってシャボン玉をふくらましている少年の視線は、シャボン玉がふくらんでいる様に注視している。後ろに座っている子も同様に、シャボン玉に眼差しを注いでいる。このような様態をフリードは、アブソープション(没入)という言い方で説明します。どういうことかというと、少年はシャボン玉に注視することによって、この絵に対峙している観客の存在をあたかも忘れているかのように、シャボン玉に没入している。そのことによって、観客の視線に必ずしも依存することのない、絵画の表象あるいは絵画の空間というものが成立しているというわけです。このような没入の表象に即してフリードは、ダヴィッド、ジェリコー、あるいはクールベ、そしてエドゥアール・マネといった名前を挙げていきます。美術というジャンルにおける自律した表象を形作っていく歴史の系譜というものを、フリードは辿っていくわけです。
さらにフリードは、様々な時代の絵画にアブソープションという用語を適用させていきます。これはバロックの時代に描かれた、カラヴァッジョの『ナルキッソス』という絵ですけれども、フリードが言うところのアブソープションというものが、この絵画では典型的に実現されている。ナルキッソスが水面に映った自分の姿に見惚れて、フリーズしてしまっているという状態が描かれているわけですね。この絵は二重の意味で自律的な空間を形成していると言うことができる。一つは水面に映っている自分の像に、見ている主体というものが没入しきっているということ。あともう一つは、この絵は非常に興味深いことに、ほぼ画面の中央で折り返すかのように、空間を切り閉じているということです。ちなみに余談ですけれども、このカラヴァッジョの絵を精神分析的に読むという見方もあって、ここではナルキッソスの足の膝がむき出しになって描かれているわけですけれども、精神分析的な解釈によれば、これは勃起したペニスの代理表象であるという読み方があったりします。なぜカラヴァッジョの話をしたかというと、光と闇というお題でベタに思いつくのがカラヴァッジョだということもあるんですけれども(笑)、しばしばカラヴァッジョという画家は、光と闇という特性によって語られます。これはカラヴァッジョに限らず、バロック絵画一般において多く適用されることではありますが、西洋的な光と闇というものの理解のための、手がかりにはなるでしょう。
さっき谷崎が、いわゆる近代的な光と闇という二項対立を前提としつつ、そこから遡及的に日本の空間の特質のようなものを、フィクションとしてではあれ形成したのとは対比的に、大雑把に言うと、西洋における光と闇というものは、二元論的な対立項として捉えることによって空間を生成させているのだと言うことができるでしょう。しかし谷崎が読むところの日本的な空間というのは、そういうものではない。光/闇といった二元論ではなく、その両者を含みこむグレーの領域こそ、日本的な空間をジェネレートするマトリックスとして、おそらく谷崎は考えていたのではないか。
石田:今途方もないスピードで展開されたお話なんですけれども、ここは造形表現学部で、美術史はみんな弱いと思うので、今の土屋さんのお話を少し僕のほうでフォローさせてもらいます。
形式主義の限界
多分今の話の一つには、圭太さんがやっているインスタレーションの、この展示形態自体が非常に生成的なもので、恒久的なものではないという点が関係してくる。いわば形式から逃れようとしている作品だということがまず言えると思います。逆に言えば、形式には絶対に陥らないぞという意識が見えている。
その辺で振り返ると、先ほどのフリードの話というのはまさに形式論の話なんです。簡単に言うと、その前にグリーンバーグという人がいまして、彼が言うには壁に何かを掛ければ、それはもう絵画だと言い切るしかないんだ、そうでないとモダニズムというのはやっていられないし、突き詰めていけないんだ、ということだと思います。つまり彫刻であれ絵画であれ、いずれにせよそのジャンルの中だけで進化し続けていく、といった夢みたいな話が、1960年代、70年代まであった。逆に言えば20世紀の美術の半分以上は全部それだと言い切れると思います。その後の時代にわれわれはここにいるのですが、その臨界点のような作品としてミニマリズムの作品があって、限界を提示するという意味においては、これがまた不思議なことに大体正方形になるんです。
一つ言えるのは、芸術作品としての自律性をここまで突き詰めると、これは単に美術という制度によるものでしかなくなってしまうわけです。例えば展示スペースに置かれれば、それは作品になる、といったように。おもむろに箱を置いただけのようなものでも作品になり得る。ともあれ、一つの限界の提示という意味においては、正方形というのは絶対的な形、形の始まりみたいなものとしてイメージされていたのだと思います。
ところがここまでやってしまうと、もう作品の成立というのは、劇場みたいなものでしかないのではないか、ということになる。そこでは作品と、見る者の役割が明確に分かれていないと成立しない。それを超える一つの例として、没入というイメージが出てきたのです。ただ、この没入の問題というのはとても難しい。
Posted by 「石田尚志in沖縄」製作日誌 at 20:56